「どらっぐすとうあ」で @ 螺旋階段 / 不思議なところ

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「この項続く」と記しながら、タイトルを変えての執筆となってしまった。
「困ったことよ」と呆れながら、この気まぐれにどうかお付き合い願いたい。

このCDに収められた最初の二曲は、1970年代から80年代にかけて京都西陣京極に存在した
「どらっぐすとうあ」での演奏である。
CDのクレジットではライヴとなっているのだが、むしろ限りなくスタジオ録音に近いのでは無いかと想像する。
と言うのは、プレス・リリースによればこのCDはスタジオ録音を含むとされているからだ。
大阪の「クルセード」で録音された残り九曲はどう聴いてもガンガンのライヴだから、
スタジオ録音が含まれているとするならこれら「どらっぐすとうあ」での演奏に違いない。

「どらっぐすとうあ」には、数度しか行ったことが無い。
そこでロサンジェルス・フリー・ミュージック・ソサエティ(LAFMS)とその周辺の音源を集めた
テープ・コンサートを行わせて頂いたことも、記憶に残っている。
確かコンサートを通してスタッフだった美川俊治君とイヴェント主催者の私だけしか居らず、
つまりお客さんはゼロという情けない結果となった。

だからと言って、ペナルティを課せられた訳では無かった。
それはそれとして結果を許容してくれたのだから、有難い話だった。
そんな「緩さ」が、何とも魅力的な場所であり時代だった。

「どらっぐすとうあ」の中は、赤だったか紫だったか絨毯地のシートが一面に敷き詰められた変わった構造だった。
天井が低く、元は何を目的とする店舗だったのかその想像は容易でなかった。
そして客席とステージの境界も定かでなかったと、ぼんやり記憶している。
確か何処にでも寝転べそうな、そんな感じだったかな?
余りにも記憶はおぼろげで、自分の歳を省みれば仕方ないとも思う。

それはともかく、そこは住もうと思えば住めなくはない場所だった。
つまり、異空間のようでありながら実は日常のすぐ傍らに在ったのだ。

スタッフは美川君を始め、JOJO広重さん高山謙一さんなど。
さらに、頭士奈生樹さんや第五列の方々もこの場所に出入りしていたようだ。
当時の関西アンダーグラウンドで活動する一部の方々にとり、巣窟的場所であったのは確かだと思う。

一方、当時の関東には吉祥寺の「マイナー」が在った。
喫茶店が原点だったと思うが、言わば東京アンダーグラウンドの常打ち場というポジションをやがて得ることと成る。
「マイナー」には、顕かなステージ部分が在った。
そのオーナーだった佐藤隆史さんは、後にピナコテカ・レコードを興す。
灰野敬二さんを始め、
現在PSFレコーズなどから作品を発表している少なからぬ音楽家が「マイナー」を通過して行った。

さて「マイナー」に対する「どらっぐすとうあ」のポジションは、必ずしも相同では無い。
「どらっぐすとうあ」の中で流れる時間は商業的音楽の在り方とはおよそ相容れない、
くどい様だが日常の延長としか呼び様の無いものだったのではないか?
数度しかそこに足を踏み入れたことの無い私の眼にさえ、はっきりとそう映るのだ。
そんな場所を、何と呼べば良いのだろう。

おぼろげな記憶を辿れば、「フリー・ミュージック・スペース」というコピーが掲げられていたかな?
だがむしろ、現在種々の職種において用いられる「インキュベータ」という呼称が
「どらっぐすとうあ」にこそ相応しいのではないだろうか。
まさに、そこは「坩堝」であり「温床」だったのだ。

日常の延長としての佇まいを持ちながら独特に機能する場所に、熱い視線を送る方が確かに居られた。
当時まだスターリン所属だったと思うが、遠く関東から遠藤ミチロウさんが激励に訪れたという逸話も残っている。
その際ミチロウさんは「どらっぐすとうあ」近所の元禄寿司で桶いっぱいの寿司を買い求め、
差し入れとして持参されたという。
つまり、そこは全国レベルで識者から注目されるアングラ・スポットだったのだ。

そんな場所で展開された演奏は、「コンサート」というパッケージに収まるものとは凡そ異なっていただろうと想像する。
この CD 冒頭の二曲は、「どらっぐすとうあ」の空気を良く伝えるものだと思う。
ジャーマン・ロックとシャンソンとヴェルヴェット・アンダーグラウンドと、そして京都の空気。
余りにも京都らしい音、そう呼ばせて貰っても的外れでは無い。
確かに、京都はそんな場所だった。

あるいは、京都自体がインキュベータとして機能した時代だったのだ。
そして、関東からの眼差しを受けようが京都の軸は微動だにしなかった。
その時代を伝えるメッセンジャーとして、螺旋階段は我々の前に姿を現した。
これを、どう読み解き聴き解いて行くか?
ルーチン化した評論とは次元を異にするスリルに、この夏は酔ってみようか。

*****************************<追記>*****************************

遠藤ミチロウさんと言えば、覚えている逸話がある。
1980 年代前半のことだろう、彼は非常階段を知り「スタイルこそ違えやっていることは同じ」と感じ入ったという。
その結果「スター階段」というコラボレーションが生まれるのだが、それに先立ち
大阪・天王寺の「マントヒヒ」においてスターリンと非常階段の共演が行われた。

マントヒヒのキャパシティを考慮すると、当時知名度が急速に増しつつあった両バンドの共演は
ある意味無謀でさえあった。
そこでバンド実名を記さず、「ブレジネフと首脳会談」との告知でコンサートが行われたのであった。

流石にこの表記のみから両バンドの登場を看破したファンは多くないだろうと普通には思うのだが、
果たしてどんなコンサートとなったのだろう?

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この記事へのコメント

坂口
2006年06月17日 22:50
「どらっぐすとうあ」が在ったのは、「西京極」ではなく
正しくは「西陣京極」である。
そのことを指摘して下さったのは、オウブの中嶋さんだ。
訂正すると、共にお詫びします。
そして何よりも、中嶋さんに感謝。
聞けば当時は中嶋さんも「どらっぐすとうあ」に行き、
ジャーマン・ロックのアルバムをリクエストされたという。
京都という町の持つ人脈の妙を垣間見せられた、そんな
感じのするインキュベータの面目躍如的な逸話だ。
そう言えば、「西陣三郎」の名で活動する演奏者が居た。
あの広重社長の芸名だろうと、そう理解していますが。