サイコの風 @ BENEFIT 2011

石上和也さんの音楽にはサイコティックな側面がかなり在ると、前から思っていた。
エレクトロニックな音の構築にかけての手腕は申し分無いのに、とにかく奇矯なのだ。
表現している情念のレンジが広いのだが、単に色んなのが在りますという風情では無い。
聴いていると奇妙な気分が湧いて来て、音の間および背後に跋扈する何かを感じてしまう。
サイケデリックと表現するよりも、焦点を絞り込んだ言い表しとしてサイコティックとそれを呼びたいのだ。
日本のノイジシャンでサイコティックなパワーを持つと言えば、まずペイン・ジャークを挙げずばなるまい。
彼が放射するのは、恐ろしくストレートフォワードなスタンスに起始する超高速のエレクトロン・ウェイヴ。
しかし、どんな轟音を用いようとも彼のエナジーは何気も無く驚くほど静かに降臨する。
聞こえている表層の現象の向こうには、最早反物質を基質とする化学反応が起こっている様だ。
このペイン・ジャークに比肩し得る存在が、共に大阪を活動基盤とするサードオーガンと石上さんだと思っている。
彼らはいずれも、物理としての音を超えるエナジーを音楽の中に創生するレベルに参入を果たしてしまった。
エレクトロニックなデータに塗れてはいても、そこから聞こえて来るのはナチュラルなエナジーだろう。
そしてナチュラルであり過ぎる結果として、彼らの音はストレートフォワードに進行することを良しとしない。
あるいは、聴いていると音の物理をストレートに受容することを拒絶する何かが我々の中に蠢き始めるのだ。
「凄い」 とか 「クオリティが高い」 とか、優劣を云々するフィールドとは別の場所で彼らの音楽は呼吸をしている。
さて、石上さんは複数のプロジェクトを並行している様だ。
中でも、DARUIN (ダルーイン) はロウ・ファイの趣きが顕著な面白いソロ・ユニットだ。
ある意味溜息の様な、ちょっと息を抜いた時にも当てはまる表情をそこに聴くことが出来ると思う。
そんな中に時折サイコティックなモノを垣間見る瞬間があって、それを楽しみにしていた。
いつの間にか、DARUIN を聴いている間にムクムクと慾が出て来てしまった様だ。
「正面を切ってサイコティックな演奏する石上さんを聴きたい」 と、思い始めたのである。
そんな希望が、先日の山村サロンにおいて実現した。
比較的高音域で蠢くサイクリックなドローンから、演奏が始まった。
そうしていると、ノイズを超え向こう側から作用を仕掛けて来る引力に気がついた。
これまでに聴いた演奏では味わった経験の無いもので、聴いている方の気分が周期的に変化する。
石上さんは 「引き寄せることを念頭に演奏しました」と語っておられたが、そう表現するに相応しい演奏だった。
そして、それはラップトップ・コンピュータを用いる演奏の意外なパワーを提示している様に思うのだ。
コンピュータのハード・ディスクは、古びて来ると奇怪な音を発生し始める。
小さな音なのだが精神に奇妙に抵触する、それこそ「器物の怪」と呼びたくなるものだ。
あの音を自由に操作しようとなどすると、そっちの側に引き摺りこまれてしまうのではないか?
そんなことさえをも妄想させてしまう、妖気じみたエナジーを帯びる音である。
石上さんは、それに近い音を発し続けたと想う。
「よくあんな蠢きを制御し切れたものだ」 と、感心する。
サイコティックな音楽は、まさに両刃の剣だと言えるだろう。
多分、演奏者自身もトリップの中に参入してしまうと推測する。
その中で、どの様に自分を維持し得るかで成否が決まるだろう。
もちろん、演奏者自身の軸が揺らいでは駄目だ。
でも、全く軸が動じないことも同時にタブーだと想う。
ある意味では、綱渡り的な知覚の勝負を自分が創生する音と繰り広げねばならない。
彼は、そこを見事にクリアしたと思う。
つくづく、石上さんは奇矯な音楽家だ。
彼は立派に、正真正銘アカデミズムに属している。
同時に、最早それと強烈に反発する意識もが周囲に充満する。
まるで引力と反発力が、いつもせめぎ合っている様な佇まいだ。
それこそが、サイコティックな音楽を演奏する最も重要な軸なのだと想う。
"サイコの風 @ BENEFIT 2011" へのコメントを書く