日々の臨界 @ Ferial Confine / 1st, 2nd & 3rd Drop

画像

Ferial とは カソリック教のタームで、「日常」 あるいはまれに 「祝日」 を表す言葉だという。
Confine は 「境界」 や 「辺境」 を表し、
現在でこそ適用されないが昔は 「幽閉場所」 と 「牢獄」 を意味する言葉でもあったという。
この二つの単語の連なりから成るユニット名をどう訳出しようかと迷ったが、
日常と非日常を分け隔てるポイントと解釈した。
和訳は 「日々の臨界」 でどうかな、と想っている。

フェリアル・コンファインは、アンドリュー・チョークのユニットである。
1980 年代前半から 1986 年迄の、短い期間にだけ存在したという。
作品としては Broken Flag からの "Meiosis"、そして共に自主出版の "Morceau Melodique" と
"Full Use of Nothing" という三本のカセットが 1985 年に 出版されている。
"Full Use of Nothing" は、1999 年に LP として米国の Fusetron から再発された。
1984-85 年に録音されたカセット音源をコリン・ポッターが 1998 年に I.C. スタジオでリマスタリングし、
再発に至ったものの様だ。

これらオリジナル作品の他にも、フェリアル・コンファインの音は
ザ・ニュー・ブロッケイダーズ (TNB) が応用することを経てリスナーに知られることとなった。
おそらくは、アンドリューの望外に在る現象だったろう。
そのきっかけとなったのは、TNB による音響編集アルバムである "The Impossible Humane" (1986 年) に
アンドリューによる音源が用いられたことにあるのではないかと想像する。
そして LP "The Final Recordings" (1991 年) と 7 インチ・シングル "Gesamtkunstwerk" (1994 年) が、
いかにも TNB とフェリアル・コンファインの共同作品であるかの様な表記にて出版される。
だがこれらは両ユニット間のコラボレーションというよりも、
TNB によるフェリアル・コンファイン作品の応用と解釈するのが妥当な代物の様だ。

その奇妙な共同作品とは別に、
アンドリューは自身の名の下に発表するソロや様々なコラボレーションを行って来た。
クリストフ・ヒーマンとのミラーにおいては、22 の作品を発表している。
アンドリューのキャリアを一望すると、
フェリアル・コンファインは期間限定のちょっと変わった活動形態として記憶に刻まれることとなるだろう。
TNB が応用しているとなると、どうしてもハーシュなノイズを想起する。
でも "Full Use of Nothing" に収められた音は、嵐の様にどこかナチュラルな感覚を持っていた。

さて、フェリアル・コンファインには 1986 年 1 月に録音された作品が発表されずに残っていた。
その音源が 2004 年に編集され、4 年の時を経て鈴木大介さんの Siren Records から出版の運びとなった。
タイトルは、"First, Second and Third Drop (ファースト・セカンド・アンド・サード・ドロップ)" (Siren 014)。
収録トラックは、Procession (プロセッション)、The Flying Fish (トビウオ)、Advent (降臨節)、
It's Past (過去)、The Sky Collapsed (崩れ落ちた空) である。
収録時間は 40 分弱で、各々が約 2 分 50 秒と 6 分 20 秒の最初の 2 トラックの他は
10分程度尺の作品となっている。

幾度か聴き返したのだが、ずっと聴いていたくなる魅力的な作品だ。
何よりも 'Procession' の始まりには、思わず「ハッ」と身を構えてしまう。
そこに経ち現れるのは、オーガナムの “Tower of Silence” あるいは "In Extremis" に近い気配なのだ。
ただ、'Procession' の蠢きはまるで逆流する "Tower of Silence" とでも表現すべきものである。

あちこちに立ち現れる、軋みに満ちた音。
オーガナムの作品を想起される方が、きっと多いのではないかと想像する。
'The Flying Fish' の、調和が欠落したチャンバー・オーケストラの様な軋み。
それも、一因となるだろう。
まるで "Submission" を予見した様な展開は、協和と不協の境界で見事なバランスを見せる。
狂気の臭いは余りそこに嗅ぎ取れないから、面白い。
ディヴィッド・ジャックマンも、決して狂気を行使しようとはしない。
アンドリューの在り様は、もちろんディヴィッドのそれと異なってはいる。
しかしこの一点において、彼らは共通している様だ。

'Advent' は、とても "Tower of Silence" に近い。
背後に意思の雲の様なものが蠢いている感じだが、
それは現象の終始を見続けているウィットネスの様なものだろう。
日々の境界からはみ出そうとするモノ共が蠢いて、異様な情景を音に投射する。
しかしこの音響が 1986 年に発表されていたとしたら、"Tower of Silence" との比較の結果
我々は不当な評価をこのトラックに対して下したことだろう。
かなりの確信をもって、そう想う。

一転して高音の残響を軸に配した 'It's Past' には、オーガヌムと共通する部分を見出すことが困難だ。
スペイシーと読んでも差し支えの無い展開ながら、音は宙に飛ぶよりも心の底に吸着する。
光るように蠢くのは、過去の記憶の断片だろうか?
アノドリューの作品の中でも珍しいものだと感じるが、
ひょっとしてこの感覚は後のピアノを用いた作品につながっているかも知れない。
"Goldfall" やヴィッキー・ジャックマンの "Of Beauty Reminiscing" につながるとしても、20 年の隔たりがあるが。

そしてラスト・トラック 'The Sky Collapsed' の始まりは、
まさにフェリアル・コンファインの帰結地点であることを表明する意思に満ちている。
ディヴィッドの尺八を想起させる音は、電気的なハウリングに起始するものだろうか?
巡行と逆行に回転する音の渦や、ドローンへ成ろうとして減衰する低音の繰り返し。
近年のアンドリューが季節の移ろいの背後に在る現象を描写する時に用いる音に、
これらの有機的蠢きは発展して行ったのではないかと想像する。
内と外の双方を抱え込む、宇宙の音響。
壮大なのだが同時に儚い感覚を織り込むことで、それは完結する。

画像

再び、話は過去に飛ぶ。
オーガナムによる “Tower of Silence” と "In Extremis" の出版は、共に 1985 年だった。
アンドリューはこの後、オーガナムの "Horii" (1986 年)、"Kanal" (1987 年)"、Crux" (1987 年)
"Submission" (1988 年) などの作品に参加する。
オーガナムの音響の軸がメタルの軋みから尺八の気流に推移して行った時期に、
見事な共振をディヴィッド・ジャックマンとの間に創生した時代だ。

これらと並行して、アンドリューはソロ・アルバムをカセットのフォーマットで発表する。
共にコリン・ポッターの Integrated Ceircuit から出版された "Crescent" (1986 年)、そして "Harvest" (1988 年) である。
後者は、前述の "Kanal" の音を基に編集を行ったものだと言われている。
フェリアル・コンファインが 1986 年まで存続したと言われていることを考え併せると、
"First, Second and Third Drop" はその帰結地点なのではないかと推察される。
そして "Submission" の後アンドリューがコラボレーションの形にせよ新作を出版するまで、
5 年の歳月を要したのである (TNB による発表は除く)。

"First, Second and Third Drop" の出版されたタイミングは、とても面白い。
“Ghosts on Water”、”Time of Hayfield” に続く本作の登場である。
結果としてこのタイミングは、まだアンドリューにミラーを期待するリスナーに対する
一種の引導となったのかも知れない。
ともあれアンドリューの世界が予定調和と化しかけていたミラーのエレメントとは全く別の場所に在ることが、
"First, Second and Third Drop" により明示されたのではないだろうか。

浮遊する軋みの中を推移するのは、紛れも無いアンドリューの時間。
おそらくアンドリューの音楽にノイズを期待するリスナーには、大きなプレゼントとなったかも知れない。
但し、そのノイズの奥にあるものに耳を澄ました時に本作の面白さがフルに現れると思う。
必然か偶然か、随分な時を経て今この作品は出現した。
アンドリューにとって、一つの時代の終わりを刻む作品なのだろう。
そこに至る数年が、アンドリューの基点なのだろう。

関連 URL

http://ferialconfine.blogspot.com/

"日々の臨界 @ Ferial Confine / 1st, 2nd & 3rd Drop" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント