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zoom RSS 1972 年

<<   作成日時 : 2015/04/05 11:00   >>

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ロサンジェルス・フリー・ミュージック・ソサエティ (LAFMS) の発生時期は、何時だったのだろう?
典型的には、彼らが音楽レーベルとして最初のレコードを出版した 1975 年だったとされている。

だがその名を使用してはいないもののメンバーが活動を始めた時点を指すならば、'72 年の方が相応しい。
ポッツ兄弟とチップ・チャップマンらが、ザ・ペイシェンツというユニットと協働していた時代の話だ。

リック・ポッツなどは子供の頃から気の触れた様なピアノを弾いていたので、そこに遡ることも困難ではない。
ぼんやりとした記憶に頼るならばリックは '57 年生まれ、兄のジョーは'53 年生まれだったと想う。
従って、'72 年にリックは 15 歳でジョーは 19 歳の筈だった。

チップ・チャップマンは '55 年生まれで、後に結婚するスーザン・ファーシングはその翌年に生まれたと言う。
つまり、'72 年の時点に総じて彼らは 15 歳から 20 歳の前後で中学3年から大学に在籍する範囲にあった。

彼らは組織に 「ロサンジェルス」 を冠しながら、誰もロサンジェルス市内に住んではいなかったらしい。
カリフォルニア州のパサディナなど、ロサンジェルスの東部においてユル〜く発生したのである。

それに、組織と言ってもきっちりした規則などある訳では無い。

それぞれが独立して自発的に自由な方を向いていた方々がたまたま寄り合って、現在まで続いている。
LAFMS と言う名称にしてからが、たまたま生まれてしまったものの様だ。

ポッツ兄弟そしてチップとスーザンは、ル・フォルテ・フォーと言うユニットで活動を始めていた。
'73 年、彼らはノルウェーの電子音楽フェスティヴァルに作品を応募しようと決意する。
その際にがでっちあげた架空のユニット名、East Los Angeles Free Music Society が起源なのだと言う。
如何にも権威がありそうな名前なら採択されるだろうと、彼らは想っていた様だ。
ちなみに、フェスからは応募作品 ‘They are Asleep’ は採択されなかった。

「音楽は確かに自由なものではあるが、美学は一体どうなっているのかね??」 と、コメントが来たと言う。
だが自身の音楽を 「自由」 と評された彼らにしてれば、それはまんざらでも無かったかも知れない。

さて、当時は彼ら LAFMS の起源となる方々が新しいものに目覚めるには格好の年代だったと言えるだろう。
フラワー・パワー・ムーヴメントの後、クラウト・ロックが台頭し未来にはパンクの登場が待っていた。
音楽へのエレクトロニクス応用が普及し、現代音楽が教育にも取り入れられる。
LAFMS メンバーには、モートン・スーボトニク門下で学ぶ方も居た。
ル・フォルテ・フォーのジョー・ポッツとドゥドゥエッツのトム・レッシオンは、以前からお互いを知っていた。
それぞれが、まだ高校に在籍していた時代から。

彼らは、それぞれが高校の "art star" だったらしい。
高校からの選抜メンバーとして、中古車ペイント大会で技を競ったと言う。
そして、パサデナのレコード店 Poo-Bah Record Shop の常連でもあったらしい。
やがて、トムはその音楽への情熱を認められこのレコード点で働き始める。
Poo-Bah は小さな店だったが、ある時点で引っ越し納戸の在る環境へと移った。
そこは、トムと店員そして常連客がジャム・セッションを行う格好のスタジオと成る。

そして、互いが音楽を演奏することを知った方々は合同ライヴを行うに至るのだ。
場所は、レコード店横のレストラン 「スパゲッティ・ワークス」。
このライヴが、LAFMS の出発地点とされている。
参加者は、ル・フォルテ・フォーとドゥドゥエッツ。
そして、エース・アンド・デュースが最初期の中枢的構成員だった。

間もなくスメグマが合流するも、'75 年に彼らはオレゴン州ポートランドに移住した。
この年、ル・フォルテ・フォーの "Bikini Tennis Shoes" の出版によりレーベル LAFMS が始動する。
ジョーはトムにこのレコードを贈呈し、そのことは翌年には彼らの合同ライヴへと発展した。
ル・フォルテ・フォーとドゥドゥエッツによる、ブランド図書館でのライヴである。
その記録が、LAFMS の 2LP "Live at Brand" として出版された。

さて、スメグマのジュ・スク・リート・ミートも Poo-Bah の常連としてそこに足を運んでいる。
店員であったトムは彼に様々な音楽を紹介したが、彼らは互いが音楽を演奏することを知らなかったと言う。
結局、ジュ・スクが LAFMS の存在を知ったのはポートランドへ移住してからだった。
だが彼は遠く離れた地から LAFMS への協力を惜しまず、協力を始める。
その結果が、LAFMS '76 年のコンピレーション "I.D. Art #2" へのスメグマの参加であった。

さて、この様な時代の音楽的背景こそが彼らの発生に大きな影響を与えているだろう。
それを考えるには、'72 年の前後にどんなアルバムが出版されて来たのかを振り返る必要があると想っている。

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